ブランドデザイン : 株式会社折紙 / ORIGAMI INC. | 沖縄 – 東京

2019-03-28

デザインで私を表現したい鵺の面々

自分自身の作家的表現とデザインとの狭間で悶々とするデザイナーを見掛ける。つまり「デザインで自分自身を表現(したいのに)できていない」あるいは「私のデザインがしたい」というもの。デザインという言葉も広義なので、デザイナーが依頼されたデザインを通して自らを表現する、ということが正しいとか間違っているなどと言うつもりはない。ある程度の作家性を評価されてお仕事を依頼されるデザイナーもいる。ただしこの場合、依頼者は“作風や作家性を買っている” のであって、問題解決やブレークスルーを求めてはいない。その問題解決やブレークスルーを完成させるために必要な作家性というピースを都度調達する依頼者やディレクターがいるという話だ。それならばそれで作家として生きて行ければ良いのだけれど、消費されることを突出したタレントにもなれず、表現しなければ死んでしまうような芸術家でもない、そんな鵺のような立ち位置や生き様ではご飯が食べられないさ。なまじどっちつかずでデザイナーとしても振る舞い、誰かのビジネスに寄与しようとすると「デザインで自分自身を表現(したいのに)できていない」というジレンマのループに陥る。こういうこじらせ方ってクリエイティブ産業に顕著だけど、弊社的には気持ちは分からなくもないが今さらさ、結構理解に苦しむテーマではある。

例えば建築家に住まいの設計を依頼したとき、建築家が「この依頼を通して同時に私を表現したい」などと宣ったなら、その瞬間席を立ち去ると思う。もちろんこの建築家の作家性や作風を求めているなら話は別だ。同じ住まいであっても両者は目的が違う。依頼者の人生や事業に寄与する設計なのか、私を表現したいのか、あるいは私が自由な気分で表現したピースを切り売りしたいのか、はたまたその全部なのか。分別はつけといて欲しいし、スタンスを決めたなら実現させる道筋や大人としての戦略性も見たい。デザインの定義や目的が依頼者の事業持続の可能性を高める事だとしたら(弊社がそうだけど)、“私の表現”や“私のデザイン”というナイーブさが入り込む隙間はない。そもそも発想の起点が「私の〜」ばっかりだと消耗すると思うんだけどな。ただ結果的に「これはORIGAMIさんの仕事だと思った」なんて言う感想を頂く事はある。でもそれは「この仕上げは安っぽいだろ」とか「この要素がここに置かれる必然性はないだろ」(※必然性だけの設計もつまらないけどこれはまた別の機会に)などの喧々諤々をうんざりするほど繰り返し、屍の山を乗り越えた挙げ句の話で、意図せずとも滲み出てしまう類いのもの。それらが“らしさ”と評価されることは良くも悪くも、これはこれでデザイン会社の個性なわけさ。

 

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