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2018-08-31

人を育てるということ

「人を育てる」。良く使われる言葉ではあるが、あまりに広範囲かつ関係性や定義、解釈も様々なため、こうした普遍的なテーマは難しい。最も身近、最小単位で言えば親が子を祖父母が孫をといった家族血縁関係だろうし、次に来るのは先生が生徒をということになろうか。未成年者は少年法に見られるように保護や更生、つまり支援を優先して理解されるわけだが、基本的には責任ある大人と同等とみなすにはまだ不足・未熟な存在であるからして、保護者や立場が上の者、年長者が教育、指導すべき“下”の対象であると(慣習的にも)考えられているし、未成年者が何か事を起こせばまず、保護者の責任が問われる。ここでの議論は、そうした不足・未熟な存在である(とされる)未成年者に対する教育の話ではなく、社会に出た“いっぱしの大人”についてだ。そこで主となる人間関係が展開されるのは大部分、自ずと職場となる。例外として地域活動や団体活動はあろうが、仕事場とはかなり性質の異なる組織だ。

前置きをまとめると、「“いっぱしの大人”が集う職場において人を育てるということとは何か」という枠組みで考えを進めるが、一人の個性を持った人間は突然目の前に現象した訳ではなく、生まれてからの記憶や経験が連続された流れの途中で存在している訳で(育てる方も育てられる方も)職場に限った話とは言え、やはり一人の大人が形成された環境や過程というものも切り離せない(ちなみに軍隊(式)であれば完全に切り離すだろう)ように思う。特に近年そう考えるようになった。教育を施す側とこれに受け従う側との紐付けようも無いジェネレーションギャップに加え、昨今、旧態依然の昭和的権力組織から露呈する倫理感のナチュラルなヤバさ。「腐った権力者」と非難するのは簡単だが、あれでいてみんな意外と善意の人と自覚していたりするし(当然の権利や責務であって、為すべき事をしたまで)。組織の内部にいながら、本質的、公正な態度で「人を育てるということ」の捉え方に対する認識を自分自身改めなければならないように感じている。年齢を重ねる毎に自分が何も分かっていないことが分かるから、人に影響を及ぼす怖さと同時に“塞翁が馬”と割り切れ、とのせめぎ合いだ。

人を育てた、人に育てられたエピソードはゴロゴロしている。分野や業界によっても感覚や基準は異なるし、かなりの年月が経過して何かが結実したからこそ「あの時の厳しい指導がなければ…」という事を回顧する人もいる。一方、同じ指導者のもとで結果を出せない人もいる。美談として語られている「人を育てる・育てられた」語録などを見ていると、結局は師弟、上司部下の相性や互いの資質がフィットしたのではないか、どこか同じ匂いの者同士が惹かれ合っただけではないか、という身も蓋もない考えも過る。少し危惧していることは、職場における育てる側(上司)は部下が成長しなければ自らの評価に直結するというインセンティブだけで、手っ取り早く会社や部課、担当商材に適応する人間を作るが、そこに部下の資質や人間性、人生の価値を高めたい等という意思が見えないことだ。下手に干渉しようものなら、部下に診断書を提出されて何とかハラスメント認定されてしまうかもしれない。そんなこと割に合わないし付き合う余裕もない。育てられたようにしか育てられないということは親子関係とも類似するが、もし自らが不遇であったなら、それを繰り返さないという選択もできよう。

都内の著名なフレンチレストランで働かせてもらった19才の頃、私はレストランカーストの最下層の奴隷のような役目で、頂点は皇帝たるシェフ。フランス現地で日本人初のミシュラン星を獲得した人物の日本凱旋レストランとあって異様に気合いの入ったメインダイニングだ。奴隷に人権などある筈もなく耐久レースのような日々だったが、25年を経てなお感慨深く、有り難さしか残っていない。そのとき一緒に働いていた他の人の事は分からない。しかしいくら特殊な環境とは言え、もはやあれは通用しないのだ。デザインの世界でも巨匠のスタジオだと師匠と弟子の関係で処理されやすく、しょっぱい内部事情がポロポロとこぼれ出てくるのを聞く。時代が変わったと言えばそれまでだが、現代のマネジメントクラスは実質的に40代以上のボリュームゾーンで占められているわけで、程度の差こそあれ、今日でははっきりとパワハラやセクハラと認定されそうな経験は過去にあるだろう。若者の感性を汲み取り、年長者の時代感覚も理解できる余地を持つ40代は異なる電圧を接続する変換装置とも成りうるし、少子高齢人口減少に激しく突き進む先進国日本の今にふさわしい人材育成のあり方を置き土産に開発することもできるはずだ。

「“いっぱしの大人”が集う職場において人を育てるということとは何か」と問われれば、職場の世界に最適化されたマシーンを量産する時代でないのは明らかだ(ちなみにひとつの職場に最適化されたマシーンは他所では適応できないことが多い)。巷のビジネス本では「任せてみる」「的確にほめて育てる」「フィードバックを怠らない」などの技術論に寄り過ぎている感は否めず、もう少し成熟があっても良いのではないかと感じる。烏滸がましいようだが、その人の個性や資質を理解し人生の価値を大きくすることに寄与することだと思う。この考え方に答えはないが、仮に広い視野や複眼的な物事の捉え方が役に立つとしたら、その職場で必須となる作法や知識、技術を教えるのは当然として、「リベラルアーツ」を積極的に職場に採り入れることだろう。もし「リベラルアーツ」が職場に有用ではないと感じるなら(つまり無駄や迷いを生じさせるなどの理由)その職場はおそらく社会に必要とされなくなる(バロメーター)。こうしたことは中間管理職の裁量で取り入れるのは困難だから、経営トップが推進しなければならない。粋な上司が部下を指南するのは素敵なことだが、個人のふるまいに委ねるのではなく、職場全体で「人を育てるということ」を文化として組織のメカニズムに組み込み、定着させる必要がある。

 

 

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