振り返ると自らに気づきをもたらして思慮を蓄えさせてくれたのは、思いもよらない突発的な出来事ばかりです。人が死ぬ、事故にあう、意識を失う、記憶をなくす、居場所や立場を放棄する、何かを喪失する、なんだこれ、失ったことばかりですね(だいたい自業自得)。失ってはじめて物事と向き合わされ深く考えざるをえない状況に放り置かれるということでしょうか。幼少期の経験など、もうほとんど記憶は残ってませんが深層には良くも悪くも剥がし難く癒着していて現在の人格形成に大きく影響しています。そうして自らの内側の世界への尽きない探究心との反射で外側の世界にも強く関心が向くようになりました。書店でも食品スーパーでも空港でも市役所でも「なぜこんなことになっているのか」背景を推理したり「なぜこの人はこんな風に現象化しているのか」と興味が湧いてごく無意識に人をプロファイルしている。はたから見ると不審な中年男に映るかもしれませんね。
インターネットは1997年頃から見ていた記憶があります。ワールドワイドウェブって何だか知らない蜘蛛の巣のとんでもないITレボリューションがビットバレーからISDNにのって襲ってくるからワードとエクセルと添付ファイルを覚えなきゃという具合でした。基本的に検索をするということは、自らの内側にあるものを顕在化させ強化する作業です。自らの内側にある疑問や問題意識、興味、関心、欲望、好奇、怒り、不安や恐怖が検索窓に投影されます。私的な閲覧履歴を好んで見せたい人はあまりいないでしょう。よく言われることですが、人は見たいものだけを見たいようにしか見ませんから自らをクリティカルに見つめる訓練は重要です。そうした危機意識を持たないまま、あまりに無防備にネット情報を漁りに行くと、思考が先鋭化されるのは避けられないのです。先鋭化された思考は他者の承認や共感を求め、同様に先鋭化された者どうしのコミュニティに行き着くことになり、共通の敵を見出し、その置き所が定位置になります。
人は見たいものだけを見たいようにしか見ないというのは何もインターネットに限った話ではないのですが、どこかへ出かけて道端の小石に躓いたり、誰かに会って箸の持ち方が変だと言われたり、偶発的で自らに欠如している何かと遭遇したり発見する機会はネットにはほとんどありませんし、ネットサーフにしても内側の赴くままに流れて行くものですから現実の肉体性や物理を超えて得られる情報の性質は過激で膨大で人間のHDとメモリを容易く覆ってしまいます。皮肉にも多様で無限な情報空間は理解・制御不能の存在でもあり、自分なりの距離や扱い方を開発できずに思考は硬直し、多様性とは真逆の方向に先鋭化され、結果世界が狭くなるわけです。
情報のベンダー側もトラフィックを稼ごうと狙えば、ある程度計算した上でポジショントークやミスリードを駆使しネット空間の動線やチャネルに仕掛けをしていますから、情報との付き合い方を自分なりに決着しないと物凄く先鋭化された視点と存在が耐えられないほど軽いタブロイド情報で脳みそが浸食され、コアが真空の人間が出来上がってしまいますよほんとに。子供のときからネット情報の捉え方については必修にすべきではないかとも思うのですが、現状ではこのあたり親や周囲の大人の知性に左右されますね。
ではどうすれば自分の世界の外側にアクセスできるのか、ひとつには自らの客観というものはそもそも存在しないと考えてみることです。客観的に考えの及ぶ最大範囲がすなわち自らの主観となります。そうして思考実験してみると小さな主観の外側に自然と意識が向かうようになります。そして時には居心地の良い場所から離れてルールを決めずに偶然に任せて見ることを意識的に課してみるのも有効かもしれません。その程度の冒険が許されるほどにまだ日本社会は安全です。あれ、なんだか意識の高い文章になってしまいました。