世の中に鈍臭いおっさんは山ほどいる。割合的にはそっちの方が圧倒的だと思う。私も一応おっさんと呼ばれる年齢に属しているので、おっさんがおっさんにおっさんと言うのはセーフだ。外人が外人に外人というのもシュールではあるがセーフだ。鈍臭いおっさんは大体35歳位までに形成されたベーシックからほとんど成長が見えない。35歳位あたりで学ぶ事を閉ざしてしまった人だ。残りの人生はルーチンで凌げると踏んだのか、学ぶ理由も喜びもないから学ぶことにインセティブがない。学ぶことにはギャップや痛み、コストも伴うから、もうそういう人生ゲームからは降りて、スマホでゲームやSNSでもしていた方が傷つかなくて楽なのかもしれない。ただ35歳あたりで学ぶことから降りたおっさんと、学ぶ痛みよりも喜びが上回るおっさんとでは、絶望的なまでに人生の質量が異なる。かわいそうだけど10年も経てば、死に際を彷徨うようなインパクトにでも遭遇しない限り、変わる事はないし周囲もどうすることもできない。本人は仕方がないだろう。もしかしたら散々に軽んじられた社会の被害者の一人なのかもしれないが、それでも大人が自ら選択したことだ。しかし学ぶ事から降りた大人と、そこから動けず密接に関わらざるを得ない若者や子供が受け取るであろう影響を考えたとき、私は腹立たしくはなる。塞翁が馬、それもまたその若者や子供の人生なのかな、と思ったりもする。
学ぶことに喜びを持ち続けるおっさんは年月とともに成熟し洞察力を加速的に増していく。一見関係のない物事や結論がどんどんつながり出して自分の中で掛け合わされ、昇華した他の結論をも導くからだ。物事を隔たりなく捉え、違和感を見逃さず、一面だけでなく背景や構造、時系列やパターンにも興味を示し調べ吟味してみる。その上で自分なりの「今の」結論を導き、その結論はまた更新され続ける。そうなってくると学ぶことがほとんど自律していくので、生活の中にごく自然に組み込まれ、否、むしろ学びの中に生活が存在するようになる。こういうタイプのおっさんはメタスキルの怪物だ。おそらく多くの若者よりも新しいものを取り入れたり習得したり、不要なものを不要とジャッジするスピードも早いだろう。物事を見極める力が確立され、さらにその練度・精度は高まっていく。メタスキルは個別の体系的なスキルを選別・組み合わせ・運用・応用するための土台や土壌・環境としてのスキルとでも言えば良いだろうか。元々は心理学から提唱された概念・言葉だが昨今では特に技術系の人たちの間で汎用的な用いられ方をする。氷山の一角という言葉がイメージとしては分かりやすいかもしれない、個別の体系的なスキルが水面上だとすればメタスキルは膨大な水面下だ。OSとアプリケーション、ソフトとハード、健康と運動にもなぞらえそうだ。
体系的なスキルは教育や書物やワークで移転することができるが、メタスキルはあまりに属人的なもので、経験と実践から得られた暗黙知世界なため、それ自体を簡単に人に伝えることは難しい。だからメタスキルの強みと限界を知るおっさんは自らを磨くことも止めないし、熾烈なキャリア競争、あるいは技術革新の中で陳腐化を正しく恐れることができる。最近の20代や10代は個別の体系的なスキルが物凄くて、それらを複数、容易に手にしていたりする(数学・語学・工学等・メンタル、etc.)、さらに人間性まで成熟しているように見える佇まいの人が多い。こうしたニュータイプは社会の宝だ。最近話題の将棋の天才もそうだが、極めて特別な能力を有する若者がどんどん出現してくるだろう。メタスキルを獲得したおっさんは、こうしたニュータイプと協力関係が築けるし、彼らのために何か役立つ事ができる。役割分担や相互交換が成立するのだ。だからおっさんは下からの突き上げに固まって恐々とせずに、メタスキルを活かしたポジショニングで立ち回るべきだ。そして、後輩や若者や子供たちにメタスキルがどれだけ人生や社会にとって有用か、説得力を持って淀みなく伝える努力をしなければならない。それが先を行く者の振る舞いというものだろう。