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2018-01-17

2018年のメディア・リテラシー

年明け早々ずいぶん偉そうなタイトルで恐縮です。なぜ2018年かと言いますと、2000年とも2010年とも異なるからです。メディアに接触する自身の年齢や経験も変化しています。メディアも自身も現在進行形で変化し、その関係性も変化し続けることを前置きし、改めてメディア・リテラシーについて整理したいと思います。そのうちにまたサクッと一年が過ぎて2019年になれば2019年の、あるいは諸行無常のメディア・リテラシーがあり、それは進化なのか退化なのか自己評価では何とも分かりませんが、少なくとも自らのメディア・リテラシーを時おり検証し再設定することは有用だと考えます。ただいかんせん世の中は広大な思惑の濁流で、これに対応するべくデバイスやSNSを駆使している現代人には、ひとつの事に静かに向き合う余裕はないでしょう。反射する惰性というのはジワジワと思考力や判断力を奪っていきます。米国大統領がtwitterでこれほどの奔放な発言に躊躇しないことや首相夫人がinstagram投稿で市井を困惑させる想定など2010年の私の世界には存在しませんでした。許される基準やハードルが、前提や常識が、明らかに変化していますから、無自覚に慣れされて行くのは危険なことです。インスタ映え(死語)は、今や「いかに映えないか」ということを競うフェーズに突入しようとする相場で(私調べ)まさかの、見知らぬおじさんと肩を組み合うシュールな2ショット写真がタイムラインを席巻するようになるでしょう(適当)。

 

それはさておき、何でもアリになってしまった情報空間において受信者としても発信者としても(発信者で居たい人は特に)より情報との向き合い方や発信の振る舞いに磨きをかけるか、自らが送受信装置として社会に関与することの主体責任を腹決めなければならないように思います。個人的には何をもって正解不正解かと言うよりも、当該人物にポリシーがあり、その全ての結果を引き受けるならば「どうぞご自由に」としか言えないという感じですが、加齢とともに頑に、先鋭的になる人を見ていると少し寂しい気分にはなります。「あぁあの頃のあの人とはもう二度と会えないのだな」という心境です。みんなどこか孤独で弱く、間違えますし、自らが積み重ねてきたものを防御し自らを崩壊させないための拠り所を外側に定着させると、その拠り所にポジションしている限りは何とか凌げます。ポジションを固持し、その地点から見たい情報だけを見たいように見ていると、他者がそのポジションに批判的な議論を問いかけようものなら、もの凄い剣幕なので二度と触れる事はできません。そうしてさらに孤独に、頑に、先鋭的になる、というスパイラルです。こうした人が居たときに「メディア・リテラシーに欠ける」などと済ますのは簡単ですが私の場合は未来の自分の姿かもしれないと重ねて見ています。複眼でモノを見る、クリティカルに情報と向き合う、情報を分解し科学的に評価する、そうした能力がメディア・リテラシーと言われますが、とは言え、帰属する人物の世界観と相互に呼応しているものですから、バカの壁と無知の知の岸辺を渡すものは無償の愛しかないのですね。

 

私自身は森羅万象の1%さえも理解していなければ見えてもいないだろうという構えなので、様々な分野に興味があります。そして、矛盾するようですが常々できるだけ物事の全体像を捉まえたいとも考えています。また、クリティカルを批判的思考と翻訳すると誤解を受ける事もあります。ここでの批判とは対象を非難することとは似て非なるものです。情報を分解し読み解き、自らの思考と判断で評価や結論づけ、その時々の態度を示すということです。さらにクリティカルの矛先は自らにも同じだけ向けられます。クラシックなメディアの一次取材能力やネットワークは腐っても底力があり、新興メディアの切り口やコミュニケーションには独立系ならではの鋭さや挑戦的な姿勢があります。しかし全ての情報は誰かの解釈や編集の上に発信されている以上、恣意性を排除することは不可能です。メディアにはそれぞれに戦略や事業性がありますからどのタイミングでどの情報を発信するか(あるいはしないか)、という意図も情報の編集内容や構成以前に留意しなければなりません。世界で日々巻き起こる事象を知る事のほぼ全てをメディアに依存せざるを得ない訳ですから、それを即ち世界の現実としてしまいがちですが、今見えている現実は表層や一面に過ぎない可能性も留めておくべきでしょう。メディアに期待する時代でもメディアが与えてくれる時代でもありませんので、メディアに公正さや強靭さを求め嘆いても仕方ありません。情報は事象や事実が恣意的に細分化された事実(という認識)に過ぎないなら、脊髄反射も起こらなくなります。ネットワークやデバイスもある種の臨界点に達したようにも思われますので、メディア・リテラシーとは自らの投影であることを忘れずに情報の渦をサバイブして行くしかないようです。あわよくば若者や子ども達に視点を分けてあげましょう。

 

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