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2018-11-30

一時が万事という連想やら文脈やら

男性が小用を足す際に洋式トイレに座って為すのは「いかにも屈辱的であり、フェミニストに白旗を掲げることだ」と暗に私を責める御仁がいるわけですけど、なんだか素敵だなと思うわけです。このご時世肩身も狭かろうに自らの観念に忠誠を疑わず腰に手を当て仁王立つ姿は、人生の悲喜こもごもを身を以て見せてくれていて、その様がロックだとは思わないけど憎めない奴だとは評価します。余談、ロックは様式美として座っちゃマズいですよね。便座の上に立つなどして欲しいですよね。沢田研二なんてロックですよね。まぁ良いとして、こうしたささやかなルールを拠り所にしている方は珍しくありません。前出の御仁などを見るに「男子たるものかくあるべし」というハウツーから様々な闘いや生き辛さが日常に展開されているようですが(あえて聞かないが)、インサイトとしては小心者であることを他人に知られることを恐れています。こういう動機が何かと窮屈な場面を呼んでしまうのは想像に難くないものです。そんな風に私は私の主観で連想したり勝手な仮説で文脈を辿ったりしますが、人の一面に触れればその他多くが脳内で映像化されることもまた一時が万事ということ。時には自らのパターン化を疑わないことを疑わなければ。


ただそんな私自身も大小数多の失敗や今思い出しても恥ずかしくてナメク
ジのような気分になる経験は経てきていますので、人の一面や癖から全体像を掴まえる自らの精度を、事案発生から長短の時間経過を含め、ある程度は信じても問題ないと評価しています。善し悪しや感情やバイアスを極力挟まずに目の前のことを観察する訓練は意図せずとも積んできており、そこからの連想や仮説が大きく外れることもありません。一方「人は見かけに寄らない」という言葉もあり、「一時が万事」とは反発するかのようで、これをどう理解すべきでしょう。関連する話で思い起こせば「プライドなんて捨てるべき」と発信した著名人が居たのですが、影響力があるだけに何とも違和感のあるものでした。言い切り型のメッセージは格言のような力強さを発揮し、対すると思考停止してしまいがちです。しかしこうしたレトリックは前提の陣取り合戦の様相で実に巧みに静かに世の中に張り巡られています。レトリックのイリュージョン、前提のマジックとでも言いましょうか。プライドの話に戻せば肥大した自意識と心理、相対的な優越感や裏返しの劣等感、他方、自らの生を信じ抜く生き様とでは、態度や次元が異なるにも関わらず「プライドなんて捨てろ」などと単語一括りにする。


「一時が万事」にしろ「人は見かけに寄らない」
にしろ、全く個別の文脈やレイヤーが存在するわけです。使い勝手の良い言葉だからといって、この辺をすっ飛ばして言い切っておいて、含蓄の雰囲気だけは漂わせる中二レベルの大人が増殖しております(中二の皆さま、申し訳ございません)。同じ事実や現象に接しても発言者の洞察力や知性によっては、大きく異なる結論が生じます。国や文化が交われば尚更です。人間の振る舞いや佇まいにおける、ある種のパターンは確かに存在するでしょうし、帝王学的な視点や三代で滅ぶ事無く連綿と続く名家などの謙虚さを見れば「なるほどな」という発見もあります。これらはどちらかと言えば、墓穴を掘らない、同じ轍を踏まない、他山の石、配られたカードの用い方、そうした文脈に具体的な規律を組み合わせたものでしょう。人間においても40代ともなればその人物がどんな人生を歩んできたか、歩いているかは顔や態度に如実に表れます。会社においても健全か否かを外側から窺うことはある程度可能です。翻って自らを眺めれば他者のパターン化された思考や社会全般の中央値から相対評価されているはずで、それがどんなものか大体の想像はつきます。「一時が万事」や「人は見かけに寄らない」は磨かれた洞察から運用されなければ、ほとんど意味を為さないと言えるでしょう。

P.S.

最近のロックは座っても構わないのだそうです。
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