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2017-07-18

違和感は些細で重大な能力です

子供の頃は違和感というよりも、動物的な勘が働いたり、毎日のように原初的で素朴な疑問を感じていたように思い出します。何となく、近づいてはいけない場所を避けたり、大人たちの下世話な感情の揺らぎが理解出来なかったり(身の回りの大人たちのことを確立された存在であると信じきっていました)。そうした中、子供は子供なりの社会の中でごく自然に人間関係や上下関係が表出し、相対化とともに序列やグループ化がはじまり、カテゴリ化や階層、そこに性差や親の経済力や見栄えなんかへも意識が向かい始めると、いよいよ本格的に空気を読み出します。子供ながらに子供社会の中でマナーやルール、常識や世間体に目覚めるのです。“ナナサンマル世代”の私の幼少期ですらそうだったのだから、今の子たちはどうなのか、意外に閉鎖的だったり狭かったりするかのもしれません。実際の現代社会はネットワークの副作用で、意識の上で極端に分離し、もはやお互いは対岸の景色となっているようです。

社会のつながりの中で生きていく私たちにとって“社会化”は、通過儀礼のようなものですし、慣れや経験や練度によって、より、自らのコミュニティに(自らの振る舞いによって)最適化されて行きます。その方が無用な戸惑いや衝突、孤立、他者からの攻撃を避けることができ、生命・財産を守れるなら協調的自己防衛手段として有効です。ですが社会能力と、子供時代の動物的な勘・原初的で素朴な疑問の感受性とはトレードオフの関係に近く(一般論ですが)、親元を離れ一人の人間として社会から認識されたとき、これが一気に防御的に機能します。大人になって、社会に義務と責任を有する構成員となった私たちに残された“能力”は違和感です。いつか鮮やかだった感性はセンシティブに過ぎると、社会生活の中では途端に精神的な消耗を招いてしまいます。社会化そのものに麻痺することを選択し鈍感になることは、昔嫌いだった大人の姿かもしれませんが、生きて行くためには仕方がないことなのかもしれません。

大人に残された能力である些細な違和感は重視すべきもので、これは意識的に大切に運用しなければやがて薄らいで消えて行きます。より深層に潜って留まり、再び取り出せなくなるというイメージの方が近いかもしれません。違和感を感じた時に違和感があると認識し「この違和感の正体は何なのか、どこからやってきたのか」と内観する。面倒のようですがこうした精神の所作を自らに叩きこむことで、これが霧消することを防ぐことができます。私(つまりこれを読む自分自身)の違和感を理解することは、私のリアルを理解することです。私のリアルを理解し、これと一体化していなければ、そこから生み出されるものは(そのほとんどは)空虚な味付けに過ぎません。私のリアルが理解できないということは私の嘘も理解できないという事ですし、私の真偽が不明なら社会の真偽に評価が下せる訳もありません。セルフ≒パーソナルブランディング(死語ですかね)ライフハックよりも、むしろそれをすればするほど、私の実体と乖離していきますので、何よりもまず「違和感を運用する能力」を身につける、あるいは取り戻してから、それぞれのテクニックに勤しむようにしましょう。

 

 

 

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